ESSAY

高校時代、僕は野球部に所属していた。

「甲子園に行きたいです。」と、ぼんやりと答えを持っていたものの、誰かに「甲子園に行きたいですか?」と聞かれたことはなく、その言葉を口にしたことはなかった。

しかし、一度だけ監督が「本気で甲子園に行きたいか?」と改めて聞いてきたことがあった。

その唐突な質問の意図がわからず、部員全員で微妙な間が空いた後に、淀みなく(ないつもりで)「はい!」と答えたが、その「間」が意味するものを監督はわかっていた。

というわけで、決して強豪校でもないし、実際に地区予選の二回戦で負けるようなレベルのチームだった。でも毎日練習には一生懸命打ち込むことだけはしていたし、それがすごく楽しかった。

野球には、他のスポーツと同じように背番号が存在する。

僕は三年生の時、八番をもらった。

八番というのは、いわゆるレギュラーがもらえる番号であり、ちょっと自慢ができる番号だ。

当時八番がついたユニフォームに袖を通すと、自尊心や責任感を感じることができた。

同じ運動部の友達は、きっと一桁の番号の崇高さを知っていて、僕を認めてくれている気がしたし、女子たちからはすこしチヤホヤしてもらえるんじゃないかという期待を胸に、背番号に注目してもらえることが嬉しかった。

「〇〇高校の野球部の八番」

これが部活動中の僕を表す肩書きとなった。

背番号の果たす元来の意味は、試合中に個人を識別する為の、記号である。

しかしそれ以上の役割を果たしてくれる。

その記号をつけられることで、自分とは何者かということが少しばかり形作られるからだ。

冒頭に書いたような、野球を楽しんでいることや、甲子園には縁がないこと、でもその中で少しは誇りを持てる努力をしたこと。

そんなことが改めて認識できる。

背番号はそんな役割を、実は果たしている。

僕たちは、人生の中でそういう記号を背番号以外にも背負ってきた。

「赤組の応援団長」

「三年一組の学級委員」

「〇〇さんちの次男」

「〇〇支店の店長」

これは全て、組織あってのものだ。

学校という組織。

家庭という組織。

会社という組織。

自治体という組織。

そういった組織と記号の組み合わせは、自分のアイデンティティを保つ上で、「自分とは何者か」を自分自身に説明してくれる。

アイデンティティを感じると同時に、社会との接点を認識する機会ともなる。

少なくとも僕はこの肩書きという記号を失ったことはない。

物心がついた時には、学校という組織に属していたし、卒業後も、なんらかの組織との接点を持っていた。

今後も持ち続けるだろう。

ただ、一度だけ、会社を辞めて、自分で好きなことを仕事にしようと考えた時、とても不安になったことを覚えている。

どうやって自分は人から認識され、自分自身に、自分の立ち位置をどう認識させるのだろう。

自分がやっていることは、社会の大きな荒波の中で、流されて飲み込まれるんじゃないか。

社会との接点をどう見つけられるだろうか。

その不安を発見した時は、組織の強さと安心感を知った。

きっとその不安に対する答えは、組織に属することではなく、行動で自分を形作ることだと思う。

その時には名前のない人との繋がりが生まれるのだろう。

それは頭では理解している。

しかし、自分は組織のありがたさを知ったのだ。

これからも背番号には頼らせてもらうと思う。

感謝しながら、うまく頼りながら、行動によるアイデンティティを築いていきたい。

そう思っている。

徳郎

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